恋バナ

こないだ、仲の良いヤツのつらい恋バナを酒飲みながら聞きました。
かなり長い付き合いなんだけど、今までになく感情むき出しで良かったなぁ。
イヤな方向じゃなく心をさらけ出した状態ってのは、愛らしい姿ですよね。

すぐ隣にノンケカップルとかいるのに、セックスとかチンポとか叫びまくりながら感情を吐露していたので、まあ自分以外にとっては迷惑だったかもしれませんが。


恋愛において、想いが強い側と冷めてる側では、強い側が一般的に「負け」とされるし、自分も言葉としては「アンタ完全に負けてるわ…」と評するんですけど、恋愛の旨みという意味では、それは逆転するんじゃないでしょうか。

冷めてる側は、後ろめたさや申し訳なさや(ぶっちゃけ)面倒臭さは味わえても、それは恋愛らしい豊かな感情とはちょっと違う。
「いくら没頭できてるって言っても、こんなつらい感情はイヤーッ」とその最中は思うのは、経験からも分かるんですが、実際に今たいして恋愛感情が動いてない俺様(クールビューティ)からすると、恋で心がワヤクチャになってる姿は、うらやましくすらあります。
あんなに「つらさ」で乱れられるってことは、その分、次の「幸せ」もバカみたいに謳歌できるはずだもん。


個人の脳内での相対的な感覚でしかない以上、本当の意味での比較はできないのは承知してますが、「たっぷり傷つき悩み泣き、たっぷり喜び癒され笑う」というのはやっぱり人生が「感情と記憶の歴史」である以上、旨みのある有り様ですよね。
ストーリーでも、世に言う名作というのは、たいていこの振り幅がでかいものばかりです。

君が今感じている喪失感は、その分たくさん得られた証。
そうしてどんどん器を大きくしていけば、いつかビックリするような大きなモノがズッポリ入ることでしょう。



昨年あたりから友人知人が続けて亡くなっているんだけど、本当に、もうそんな流れは止まってほしいですよ。みんなマイナスのピークをなんとか乗り切ってくれないかなぁ。

映画と漫画で育ててます(また長文)

元彼ノブが『嫌われ松子の一生』を観に行くというので、喜んで付き合いました。三度目の松子。すっかりトリコです。中谷姐さんの中指炎のコマ~のトリコです(違う)。

観終わってメシを食いながらいろいろ話してたんですが、ノブが「松子が自分に似てて楽しかった。引きこもったり立ち直ったり、あんな風に生きるのがいいね!」みたいなことをケロッと言ったので、ああやっぱり3年半付き合えたヤツだなあと思いました。このふてぶてしく根拠のない強さはちょっと見習いたい。(ちょっとでいい)

自分なんかは、作品の設定・演出として結果的に松子が伝えてるメッセージのポジティブさに大感激はしてるものの、実際にはああはとても生きられない。やーよ、顔殴られたりムショ暮らしするのなんてぇ。(でも全然ありえそうで怖い)


ところで映画批評サイトとかでもいろんなレビューを読んだりしているのだけれど、松子という作品は、そのキャンプ演出といい、意地悪なほどの振り幅で見せるポジティブ哲学といい、自分のセンスと人生観にドンピシャンなため(こういうものすごい作品を自分で作る才能が無いのがくやしくもあるけど)、この映画に対する他人の反応って注目度大だなと思いました。

つまりセンスと哲学が似ている(相当おこがましいわぁ…)以上、自分の本気バージョンのメッセージを正しく受け取ってもらえるかに、かなり重なりそうなんです。
過去に何度か経験している「オタゲイって、個性的な女の人を侮辱して酷い!」とか「ブス記事には本当に傷つきました!」みたいな反応って、まさしく自分の中ではむしろ普通の記事以上に愛を込めて送ったエールなのに「なんで?」と思うんですが、このすれ違いはまさしく、松子の受け止め方にも通じるものなんだなぁと。
まあ、より多くの人に嫌われないように優しい物言いに調節することも仕事によっては必要かもしれませんが、やはり表現哲学を貫くことのほうが自分にとっては重要なので、今後もそのへんはなるたけブレずに生きたいなと思った次第です。
「人を怒らせるのが好き」と言い切るマドンナみたいな強さが欲しい。ついでにあの旦那も財産も欲しい。


とまあ、松子どっぷり週間を送ってるわけですが、他の表現にも触れなければと、深夜にマン喫で、『キーチ!!』を最新刊までまとめ読み。大好きなコミック『ザ・ワールド・イズ・マイン』の新井英樹氏の現行作品。
この人の表現は同じく大好きな楳図かずお大先生とは違って、全っ然オネエセンスではないです。むしろすっげーノンケ男臭い。でも、恐ろしくソウルフルであり革命精神に溢れている人なので、俺様の熱い男の子な面(あったのかよ!)にギュンギュン来るんですよ。世の中の善悪を問い、ネット社会に挑戦的なメッセージを投げかけているという意味では、大人気の『デス・ノート』なんて足元にも及ばないくらい、新井作品は凄まじい高みに達してます。
『キーチ!!』も、序盤はどうなんだろうと思っていたんですが、どんどん『ザ・ワールド~』と同じスケールに話が動いていって、相変わらず胸躍る熱さでした。

やー、世の中には、素晴らしい魂を持って、それをものすごく高水準の表現テクで人に伝えようとしている人がいっぱいいる。本当に惚れ惚れします。


実はこないだの土曜明け方、歌舞伎町のイベントの楽屋で、エスムラルダとなぜか「最近の情報溢れる社会ってさ」なんて半分溶けたメイク(ほぼ趣味女のオッサン)のままで話し込んでたんですが、ホントここ数十年で人間の脳に送り込まれる情報量はエライことになってますよね。
多分、ちょっと昔の農村に住んでた人間なんて、日々のニュースは「戦慄! 村の田吾作、肥溜めにハマる!」とかその程度のことだったわけでしょー。
もう今の、ネットで世界じゅうの個人のつぶやきさえつながってる状態なんて異常事態もいいところ。脳というハードウェアはそう簡単に進化できないのだから、ほぼ確実にデータ量はオーバーフローぎみなのでは。そら、うつにもなるわ。心ない子供も育つわ。

やはり大好きなコミック『魔女』(五十嵐大介)の中のセリフに
「あなたはまだ本を読んではダメ。経験が少ないから。
経験と言葉は同じくらいの量がないと、心のバランスがとれないの」
というようなのがありました。(けっこううろ覚え)

今は玉石混合、それも多分石のほうが圧倒的に多いデータの洪水の中で生きる時代。
いかに不必要なデータをスルーして、たまにある優れた表現をキャッチできるかがキモなんでしょうね。
その上で、生きた人間とやり合ったりの、体で直に感じる経験も積極的に積んでいかないと…。まあそのへんはけっこう得意よ!(絶対、偏った方面)

ヘンに肥料をやり過ぎちゃダメ、たまには陽に当てないとダメ、つうことで、心に大きな花を咲かせてあげたいものですね。アナルローズばっかり咲かせてちゃダメだゾ!(そんなにいねーよ)

嫌われ松子を愛する理由(長文&後半ネタばれあり)

『嫌われ松子の一生』に心酔してます。
試写で見て号泣。土曜日にゲイ友7人とレイトショーで見てまた涙。さらに今週、もう一度元彼と観に行く予定です。

この映画の見事な「オカマ好き」っぷりについては、バディの紹介記事(7月号絶賛発売中)で、「五社英雄映画の堕ちゆく女の悲哀を、チャリエンばりのフルスロットルな映像で見せて、最後はブロークバック並の深い愛を教えてくれる」みたいな言い回しで伝えた通りです。我ながらうまい例えだわ~(自画自賛)。本当に、あんなオカマが喜ぶオカズいっぱいな幕の内弁当みたいな映画がよく出来たもんです。

生涯観た映画のベスト5に入る、と試写以降言い続けてきたんですけど、映画って状況によって観たいものも違うので、具体的な順位をつけるのは難しい。でもあの、笑いから涙までの全部入り感や、最終的なテーマの深遠さを考えると、現状では松子が1位なのだろうなと感じられる、自分にとってはそれくらいに素晴らしい映画です。

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(以下、ネタばれあり)

2回目を見て、ネタばれなしの絶賛だけでなく、松子への愛をちゃんと具体的に書き留めておきたくなりました。いまだ原作は読んでいないし、実際には制作者の意図とは違う解釈もあるかもしれないけれど、そんなズレが生まれるのも映画のステキさだということで、あくまでブルが捉えた松子世界について書きます。


まずこの映画は間違いなくハッピーエンドです。
切ないし悲惨だけれど、とてもとても幸せな映画です。

松子は、状況として(一般的な感覚では)堕ちていく一方だし、本人もその度「なんで?」と落胆している。でも七転び八起きよろしく、かならずそこから這い上がることができる。そしてそのバカみたいに前向きな這い上がりパワーは、全て「愛」のなせる業でした。

松子の愛の質については、リュウくん側からはまさしく「神の愛」であったように、恐ろしいほど圧倒的な無償の愛です。彼女は自分がそう「決めた」ことで、まさしく地獄の底まで付いていける。でも「相手がそれを拒否している」と思った瞬間から、意外なほどあっさりと相手を切り替えることからも、その相手選びに関してはまるで執着がありません。昔からの因縁があったリュウくんの後が、まさかの「よーおこそここへ」内海くんへの切り替えだったように、愛を注ぎ、それを受け止めてくれる相手さえいれば良かったんです。

家族やリュウくんとのエピソードからしても、松子は自分が抱える愛が膨大すぎて、その放出がうまくコントロールできないし、相手の反応が自分と違う複雑な表現だった場合には、それを「拒絶されている」と思ってしまう。父親からの愛も日記を読むまで分からなかったし、リュウくんが出所後に逃げた気持ちも松子側は分かっていないでしょう。


松子はただひたすらに、たっぷりの愛を注ぐ「ただいま」と言える相手に、「おかえり」と返して欲しかっただけなんです。

逆に、それこそが全ての到達目標であるために、その相手を見つけるまでは死にきれないし、そのためなら、どんな状況からも這い上がってしまう。
初期の頃は、都合のいい愛人になるような、ただすがるだけの関係ですらきっかけになったくらいに、それはシンプルな動機でした。
その後、相手を待つ期間やくじけてから這い上がるまでの期間が徐々に長くなっていったのは、松子なりの成長だったのだと思います。

そして最終的に彼女は到達できました。男へ一極集中して注ぐ恋愛というスタイルではなく、妹を想って、相手をキレイに幸せにしてあげるという、自らの技術を使ったより広く大きな愛の伝え方に。実際には妹はいないことは分かっているのだから、「大勢の人々に喜びを与えてあげる愛」の可能性に気づけたということです。

だから、あのまま松子が生きていれば、もうこれからは、無尽蔵に湛えた愛の出しどころに苦しむ必要もなかった。まさしく選ばれし人間として、多くの人を幸せな気持ちにしてあげられたでしょう。そこに気づけた時点で松子はもう十分に満足だったのだと思います。


殺され方が唐突に思えるほど無機的であることにも意味があるでしょう。あの死因は、映画の大半を占める昭和的な情の世界から遠く離れた、現代的なネット感覚コミュニケーションの象徴そのものです。彼らはまともに顔さえ映らない薄気味悪い笑い声だけの存在で、愛の塊である松子とは間逆の、心ない世界の闇の部分。残念だけれど、それらは確実に世界に同時に存在するものです。

でも、愛の伝え方を獲得した松子にとっては、彼らに対する憎しみなんてひとかけらも無かった。観客はあんな奴らに松子が殺されるなんて許せないと思うかもしれないけれど、あんな奴らに殺されても彼らのことなんて屁とも思わないくらいの高みに、松子は到達していたんだと思います。
ボロボロの見た目とボロボロの状況下で、あんな奴らに暴行されて朦朧としながらも、彼女は「これからいろんな人達を笑顔にしてあげよう。ありったけの愛を注ごう」と願い、幸せの象徴である歌を歌いながら死んでいったんです。彼女にだけは見える花畑に包まれて。


ストレートの大人は、家族制度という社会単位や、子育てという大仕事によって、良くも悪くも自由を奪われ縛られることで、比較的心の安定が得られやすい。
それに比べてオカマ達が置かれている状況はまさしく松子に似ています。
自由とは道なき荒野。
愛をいっぱいに抱えた子供大人みたいなのが、レールのない世界を、どこにその愛を運んでいけばいいのか分からないで心細く進んでいる。
映画版『少女革命ウテナ』のエンディングのように、その荒野を裸で笑顔で突き進められればいいのですが、そんな勇気はそうそう得られるものじゃないですから。

でも松子の生き様を観れば、どんな状況だろうが、人は愛の可能性さえ信じれば何度だって這い上がれること、そしてそれがどんな不運と悪意に拒まれようとも、自らの世界は花と輝きに溢れたものにいつだってできるということが分かります。

自分は、子供の頃に観た『愛少女ポリアンナ』から学んで以降、座右の銘が「良かった探し」なんですが、松子はまさしくそんな自分の人生観そのものの映画でした。

世界は想いで変えられる。生きるって素晴らしい!
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