『嫌われ松子の一生』に心酔してます。
試写で見て号泣。土曜日にゲイ友7人とレイトショーで見てまた涙。さらに今週、もう一度元彼と観に行く予定です。

この映画の見事な「オカマ好き」っぷりについては、バディの紹介記事(7月号絶賛発売中)で、「五社英雄映画の堕ちゆく女の悲哀を、チャリエンばりのフルスロットルな映像で見せて、最後はブロークバック並の深い愛を教えてくれる」みたいな言い回しで伝えた通りです。我ながらうまい例えだわ~(自画自賛)。本当に、あんなオカマが喜ぶオカズいっぱいな幕の内弁当みたいな映画がよく出来たもんです。

生涯観た映画のベスト5に入る、と試写以降言い続けてきたんですけど、映画って状況によって観たいものも違うので、具体的な順位をつけるのは難しい。でもあの、笑いから涙までの全部入り感や、最終的なテーマの深遠さを考えると、現状では松子が1位なのだろうなと感じられる、自分にとってはそれくらいに素晴らしい映画です。

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(以下、ネタばれあり)

2回目を見て、ネタばれなしの絶賛だけでなく、松子への愛をちゃんと具体的に書き留めておきたくなりました。いまだ原作は読んでいないし、実際には制作者の意図とは違う解釈もあるかもしれないけれど、そんなズレが生まれるのも映画のステキさだということで、あくまでブルが捉えた松子世界について書きます。


まずこの映画は間違いなくハッピーエンドです。
切ないし悲惨だけれど、とてもとても幸せな映画です。

松子は、状況として(一般的な感覚では)堕ちていく一方だし、本人もその度「なんで?」と落胆している。でも七転び八起きよろしく、かならずそこから這い上がることができる。そしてそのバカみたいに前向きな這い上がりパワーは、全て「愛」のなせる業でした。

松子の愛の質については、リュウくん側からはまさしく「神の愛」であったように、恐ろしいほど圧倒的な無償の愛です。彼女は自分がそう「決めた」ことで、まさしく地獄の底まで付いていける。でも「相手がそれを拒否している」と思った瞬間から、意外なほどあっさりと相手を切り替えることからも、その相手選びに関してはまるで執着がありません。昔からの因縁があったリュウくんの後が、まさかの「よーおこそここへ」内海くんへの切り替えだったように、愛を注ぎ、それを受け止めてくれる相手さえいれば良かったんです。

家族やリュウくんとのエピソードからしても、松子は自分が抱える愛が膨大すぎて、その放出がうまくコントロールできないし、相手の反応が自分と違う複雑な表現だった場合には、それを「拒絶されている」と思ってしまう。父親からの愛も日記を読むまで分からなかったし、リュウくんが出所後に逃げた気持ちも松子側は分かっていないでしょう。


松子はただひたすらに、たっぷりの愛を注ぐ「ただいま」と言える相手に、「おかえり」と返して欲しかっただけなんです。

逆に、それこそが全ての到達目標であるために、その相手を見つけるまでは死にきれないし、そのためなら、どんな状況からも這い上がってしまう。
初期の頃は、都合のいい愛人になるような、ただすがるだけの関係ですらきっかけになったくらいに、それはシンプルな動機でした。
その後、相手を待つ期間やくじけてから這い上がるまでの期間が徐々に長くなっていったのは、松子なりの成長だったのだと思います。

そして最終的に彼女は到達できました。男へ一極集中して注ぐ恋愛というスタイルではなく、妹を想って、相手をキレイに幸せにしてあげるという、自らの技術を使ったより広く大きな愛の伝え方に。実際には妹はいないことは分かっているのだから、「大勢の人々に喜びを与えてあげる愛」の可能性に気づけたということです。

だから、あのまま松子が生きていれば、もうこれからは、無尽蔵に湛えた愛の出しどころに苦しむ必要もなかった。まさしく選ばれし人間として、多くの人を幸せな気持ちにしてあげられたでしょう。そこに気づけた時点で松子はもう十分に満足だったのだと思います。


殺され方が唐突に思えるほど無機的であることにも意味があるでしょう。あの死因は、映画の大半を占める昭和的な情の世界から遠く離れた、現代的なネット感覚コミュニケーションの象徴そのものです。彼らはまともに顔さえ映らない薄気味悪い笑い声だけの存在で、愛の塊である松子とは間逆の、心ない世界の闇の部分。残念だけれど、それらは確実に世界に同時に存在するものです。

でも、愛の伝え方を獲得した松子にとっては、彼らに対する憎しみなんてひとかけらも無かった。観客はあんな奴らに松子が殺されるなんて許せないと思うかもしれないけれど、あんな奴らに殺されても彼らのことなんて屁とも思わないくらいの高みに、松子は到達していたんだと思います。
ボロボロの見た目とボロボロの状況下で、あんな奴らに暴行されて朦朧としながらも、彼女は「これからいろんな人達を笑顔にしてあげよう。ありったけの愛を注ごう」と願い、幸せの象徴である歌を歌いながら死んでいったんです。彼女にだけは見える花畑に包まれて。


ストレートの大人は、家族制度という社会単位や、子育てという大仕事によって、良くも悪くも自由を奪われ縛られることで、比較的心の安定が得られやすい。
それに比べてオカマ達が置かれている状況はまさしく松子に似ています。
自由とは道なき荒野。
愛をいっぱいに抱えた子供大人みたいなのが、レールのない世界を、どこにその愛を運んでいけばいいのか分からないで心細く進んでいる。
映画版『少女革命ウテナ』のエンディングのように、その荒野を裸で笑顔で突き進められればいいのですが、そんな勇気はそうそう得られるものじゃないですから。

でも松子の生き様を観れば、どんな状況だろうが、人は愛の可能性さえ信じれば何度だって這い上がれること、そしてそれがどんな不運と悪意に拒まれようとも、自らの世界は花と輝きに溢れたものにいつだってできるということが分かります。

自分は、子供の頃に観た『愛少女ポリアンナ』から学んで以降、座右の銘が「良かった探し」なんですが、松子はまさしくそんな自分の人生観そのものの映画でした。

世界は想いで変えられる。生きるって素晴らしい!