江口洋介ってどうも好きになれない俳優なんですけど、このセリフはものすごく気にいってます。野島伸司は『世紀末の詩』を筆頭に、愛にまつわる寓話的なメッセージを多く発していたステキな人でしたね(過去形ひどい)。


ひとつ前の日記の「新木場ホモ狩り事件」。当初は、mixiのニュースについてのコメント日記、つまりほとんどノンケの反応についての反論を書いたつもりでしたが、その後いろんな人の日記などで、ゲイ自身の側も想像以上に、被害者の行動の是非のほうに論点を求めていることを思い知りました。
(※ところでノンケと書くとまるでノンケ全てを指しているようですが、もちろんそういう日記を書いたノンケのことです)

mixi日記のパターンとして自分の日記にコメントをつけてくれている方々は、同意してくれる人が多いのでむしろ励みになったんですが、現実を見渡すと、ノンケという9割がたの広大なエリアのみならず、ゲイのエリアでもけっこうな割合で被害者自己責任論が展開されているようです。

自分の意見は前の日記と変わらないんですが、補足的に、ぼせくんの日記がいい例え方してくれていたので引用させていただきます。
「これが、【近隣住人による同性愛者への抗議…「私たちの公園を返して」】みたいなニュースだったら、話は大きく変わるんだろうな」

そういうことなんです。
こういうトピックなら、素直に「オマンコ狂い人間(違う)性に奔放なゲイ達の行動について戒め込みで考える」という話題でいいんですよ。
その時はブルたんも「あーん戒めなきゃー」なんて縮こまりながら聞く気にもなります。

実際に既に重傷を受けている人間がいるのに、その罪よりも、そこにいたった行動のほうを問題にするのは、お願いだから別の機会にやってほしいんです。
日本語的にも「強盗傷害犯がやったことはひどいことだが、被害者もどうかと思う」 と書けば、国語を学んだ人なら(イヤミ)それが「強盗傷害犯がやったことはさておき、被害者の罪をクローズアップしたい」に近くなるメッセージ発信だと分かるはずです。せめて「被害者も愚かだったけど、強盗傷害犯は本当に許せない」という語順で書いてほしかった。



今から15年ほど前、まだブルたんの顔やケツがプリップリだった頃に、当時付き合っていたオトコが「血液製剤でHIVに感染した人はかわいそうだけど、性行為で感染した人は自業自得のやつらだから同情の余地はない」という意見を言って、大ゲンカになったことを思い出しました。

「自業自得」なんて、人に言われるまでもなく本人がとっくに思い知ってるんじゃないでしょうかね。殴る蹴るの暴行を受けてボロボロになっている人間なら、身体じゅうの痛みが、そしてHIVポジティブなら、不安との葛藤の日々や薬を飲む煩わしさなどが、「自分の甘さ」に対してもう十分だろうというくらいの「つらい思い」を与えているって想像できませんかね。
なぜ、何の損害もこうむっていないはずの見ず知らずの人間が、「お前が甘い、悪い」と追い討ちメッセージを発信する必要があるのでしょう。
もしかして「そんなやつらがいるから、同じゲイとして迷惑」という損害なんでしょうか。それって、ゲイパレードの女装や露出マッチョを貶める発想に逆戻りですよね。


もちろん、社会運動的な効率の良さを求める際には、場を選んでしたたかに「現状では、性に奔放なゲイ達がいるのも事実で、それには眉をひそめております」と言うのはアリですよ。自分も場を選べばそういう演技もしたいくらいです(キャリアウーマン風メガネとかで)。ゲイリブのうち、対ノンケゾーンの、公正明大さと建前で動くエリアでは、それに見合った戦略も必要ですからね。

でも、ゲイtoゲイの本音のエリアでさえ聞かされる、「今回の件における被害者自業自得論」には、心底ガッカリするのです。


男性ゲイの性が奔放なのは、疑いようのない事実です。ブルたんの愚息もウンウンとうなずいています。
でもそれはゲイという人種が生まれながらに腐っているのではなく、社会的な状況の中で生まれた傾向じゃないですか。性衝動の強い「男性」同士だからヤリまくるし、少数派だから誰かとつながりたい気持ちいっぱいですぐにくっついちゃうし、どうせ日陰モノだから変態行為に踏み外しやすいし、社会単位に認められていなくて生きがいも得にくいんだから刹那主義になる傾向が強いんです。そういう事情を真っ先に汲み取ってあげられるのは、同じゲイくらいじゃないですか。

その諸問題から自分を律するのは立派だと思うし、やれる人からどんどんやってほしい。自分がそうしたいと思うなら貞操体つけるのも大賛成です。鍵を預かってもいいです。
でも律し切れていない他のゲイを貶めることで、自分が律していきたい気持ちの表明に変えるのはちょっとずるいと思います。愛情ゆえの厳しさ、というなら、まずは愛情をイヤッちゅうほど見せてほしい。


「人なんてみんな違うから、人はしょせん一人」という人の宿命を前に、それでもなんらかの属性でつながろうとするのが多くの人間です。
生まれた地域や血縁などの物理的な属性が幅をきかす中で、ゲイ・コミュニティというのは、愛と幻想をつなぎにした心の国なんですよ。

もちろん自分だって日々そんな薄ら恥ずかしいことばかりを言うつもりはありません。というかむしろ「あのクソブスまじムカつくのよー」とか言ってる日のほうが多いです(ホントに)。
でも、マジメな話をしようって時に出てくる言葉に、愛や優しさが感じられなかったら、それはゲイ・コミュニティにこだわった仕事をして生きている人間には、本当に悲しいことなのです。ぶっちゃけ、そのへんもう慣れたつもりだったけれど、今回改めて痛みを覚えたので、こうしてしつこく書かせていただきました。痛みを乗り越えてやり続けるには、まだまだ拡張しなきゃいけないのかなぁ…。


ハローベイビー
優しさって
無限に続く愚かなほどの優しさって
いつかは愛にたどり着くかな
(『世紀末の詩』より)